#1-1「こんなハズじゃ…」想定外だらけの育Workを救った一言

育Workerインタビュー#1 小川明子さん 第1話
育Workerインタビューお1人目は、3人の子供を育てながら仕事を続けてきた小川明子さん。小川さんは、1989年に株式会社リクルートに営業職として入社。その後、株式会社人事測定研究所(現・リクルートマネジメントソリューションズ)に転籍。営業やマーケティング職を経て、現在、広報に従事、お子さんは社会人や大学生に成長されています。順風満帆にも見える小川さんの育Work人生ですが、その過程は想定外の連続、心折れそうになったことも少なくなかったと言います。小川さんに育Workで大変だったことや、それを乗り越えるために心がけてきたことなどを4回にわたってお話いただきました。
聞き手・構成:本サイト運営人 小林麻理

小川明子さん
(リクルートマネジメントソリューションズに勤務)

売上に自信アリ!営業に復帰

―1991年に社内結婚、夫婦で東京から大阪へ転勤し、営業職としてのキャリアを積むなかで94年に第一子のご長男を出産されます。当時は出産後に退職される方が多かったと思いますが、小川さんが仕事を続けようと思われたのはなぜですか?
当時、営業として数字を上げることができていて、仕事が楽しかったんですね。それで、子供を産んでからも仕事に復帰しようと考えていました。

夫の実家は九州で、私の実家は茨城。そのため親からの日常的な支援は得られない状況でしたが、私は「子供を産んだからといって、私自身が変わるわけでもない」と思っていましたし、残業はできなくても、営業として数字を上げることはできる、という自信もあったのです。

大阪営業所時代の小川さん

当時は、復職する人自体が少なかったので、夫は驚いていました。それでも、特に反対をすることもなかったです。「自分は帰ってくるのが遅いし、育児や家事に関して何も手助けできない。それでもいいのだったら復帰したら」というスタンスでした。

1995年に阪神淡路大震災があり、復職直前に大阪から東京に戻ることになるというハプニングはありつつも、1歳3か月になる長男は近所の認可保育園にはいることができ、もとの営業職として復帰することになりました。

保育園からの電話にびくびくする毎日

―復帰後はどのような状況でしたか?
復帰前には想定していなかったような日々が始まります。保育園に入った長男はすぐ体調を崩すようになりました。慢性微熱が続き、法定伝染病にもかかります。保育園から呼び出しの電話は週に何度もという頻度でかかってきます。
当時は携帯電話がなかったから、連絡手段はもっぱら会社の固定電話です。そのため、会社の電話がなるたびに「びくっ」としてしまう。それが、お客様からの電話だとほっとするといった毎日です。

お客様とアポイントをとっていても、息子の急な発熱でキャンセルすることも多く出てきます。当時はネットやメールもないですから、そのフォローも自分では難しい。そして、思うように売上も上げられません。自分は変わっていないのに、時間がコントロールできないだけで、これほど仕事ができないのかと、自分自身へのイライラが募る日々です。

「本当に大阪で数字あげてた小川さん?」

さらに職場へ復帰した時期が、ワープロ作業からパソコンのオフィスソフトによる作業への切り替えがちょうどあった頃でした。企画書一つ作成するにも「ワードって、パワポって何?」みたいな状態で、それに慣れるのだけでも大変です。

保育園からの電話がならない日に仕事を頑張ろうとすると、今度は18時半のお迎えの時間に遅れる日もありました。そうすると、保育園の先生から「小さな子供をこんなに遅くまで預けてかわいそうと思わないのか」と言われてしまうのです。

会社では、「本当に大阪で数字あげてた小川さんですか?」という失望の目で見られる。91年からグループ会社へ転籍し大阪で働いていたので、東京本社の人たちには、私のことは「営業で社内表彰を受けていた人」としての認識が先行し、同僚としての馴染みが薄いわけです。

私が休みや早退を繰り返す状況で、上司は顧客フォローなどのサポートをしてくれました。そうしたなか、息子の水疱瘡で2週間休まなくてはいけなくなった時に「また休むの?」と思わず漏らされた言葉は刺さりました。「東京ってこんなに働きづらかったっけ?」と場所のせいにもしたりして、もう気持ちはどんどん落ちていくばかりです。

いまの状況で自分は何ができるのか

―そこから気持ちを立て直すようなきっかけというのはあったのでしょうか。
半年に1度のキャリア面談で人事課長と話していたときのことです。私はそんな状態でしたから、「こんなに頑張ってるのに周囲の人の理解がなくてつらい」「育児をしたことがなくて大変さがわからない人に、好き勝手言われるのがしんどい」というような話をしたのです。

すると、いつもは優しい人事課長に「そうやって人に文句ばかり言っていてもはじまらないんじゃないの?」と諭されて「はっ」となったんです。

というのも、日常的に後ろ向きなことばかり考えていた私は、そのとき人に不満を言っている自覚すらなかったんですね。自然に話していたつもりの内容に対し「それはどうなの?」と指摘されて、「私って自分が気づかないうちに、すごいイヤな人間になってたのかも」とふと、気づかされたのです。

加えて、人事課長に「客観的事実」をベースに考えてみるように言われたのも大きかったですね。客観的に見れば、休んでいるのも早く帰っているのも事実です。そのうえで、働くと決めたのは自分というのも事実。
そのなかで何ができるのかを自分で考えないで、なんとなく「周りが理解してくれない」と思うのは違うかな、と考えるようになりました。
それに、ネガティブなことを考えるのはエネルギーを使うものです。そんなネガティブな考えに費やすエネルギーがあったら、もっとプラスのことに使ったほうがいいに決まっています。

―そこから、何か変わりましたか。
限られた時間で私テイストの仕事の工夫を加えよう、と意識するようになりました。資料作成ひとつとっても、「この仕事は彼女だから、こうできているね」と思われるものが1つでもあるといいな、と成果に注力して仕事をするということです。

すると、周囲の反応や見方も変わるんですね。周りから、ここがすごいね、という評価をもらうようにもなりました。それに対して、じゃあ今度はこうやってみようと、どんどんプラスのエネルギーになるんです。だんだん「時間がなくてもここまでやれるんだ」ということが楽しくなってもきました。一方、職場以外の生活でも、夫が時間が許せば朝は保育園に連れて行くことを自然とやってくれるようになっていました。

でも、そうしたなかで次男を妊娠、長男のときはそれほど感じなかったつわりがこのときはひどくて、そこから身体的にしんどい時期が始まります。そういう状況を振り返っても、長男出産後の営業時代は、それまで自信満々だった私が心身ともに「ガツンとやられた」時期だったなと思います。

#その後、第二子となる次男を無事出産。ふたたび復職をしようとした小川さんに、今度は子供が「認可保育園」に入れないというピンチがやってきます。【第2話:実家の支援、給料、夫…隣の芝生と比べてもしょうがない】はそこからお話を伺います。

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ABOUTこの記事をかいた人

小林麻理

ビジネスコンテンツライター、社会保険労務士、本サイト運営人。企画・編集オフィスライト(https://officewrite.wordpress.com)、社労士事務所ワークスタイルマネジメント(https://workmanage.net)代表。1978年千葉県生まれ。2000年早稲田大学法学部卒業、NTTデータ入社。2003年に出版社(商業界)に転職、その後、翔泳社を経て、2013年3月に独立。現在、3歳の娘の育児中。