#2-2 発達障害の診断から、息子と自分の進路を決断するまで

育Workerインタビュー#2 白羽玲子さん 第2話
育Workerインタビューお2人目は、現在中学生の長男と、発達障害(知的障害を伴う自閉症スペクトラム)の診断を受け現在特別支援学校・小学部に通う次男の育児をしながら仕事を続けてきた白羽玲子さん。2014年に独立し、障害のある方の就労訓練の場ともなっている珈琲自家焙煎店「縁の木」を運営されています。

白羽玲子さん
(「縁の木」を運営)

第2話は、次男が自閉症の診断を受けた前後のことから、進学や自身の仕事に関する決断に至るまでを、お話いただきました。
第1話:仕事も育児も「不満を言う相手」には選択させるのが一番?
聞き手・構成:本サイト運営人 小林麻理

「耳は聴こえています」耳鼻科から精神科へ

―次男さんが自閉症スペクトラムの疑いがあると診断を受けられたのが2011年の5月。当時のことをお話いただけますか。
次男が、あまり泣かないし、家事をしていても1人で遊んでくれるのです。「2人目は育てやすいよ」と聞いていたけど、こんなにラクでいいのかな?といった程度に、小さい頃は思っていました。
でも2歳を少し過ぎても、私が呼びかけても振り返らないし、どれがママ?と聞いても指差しもしない。これは単なる育てやすさではないのではないか?と思い、病院に連れていったのが、息子が2歳8か月のときです。

最初にかかったのは耳鼻科です。「呼びかけに対する反応がないので、耳が聴こえていないんじゃないでしょうか」と先生に相談したんです。そこで、聴力を脳波で判断する機械で検査した結果、耳は鋭敏なくらいに聴こえているということでした。そして「耳鼻科でなく精神科へ行くように」と言われたのです。

そうして行った精神科で、知的障害を伴う自閉症スペクトラムの可能性が高いと診断されました。つきそってくれた母が「じゃあ、この子は親離れしないんですか?」と聞くと、医師は、それには直接答えず「訓練すればその場に適した行動はとれるようになります。ただ、自閉症は治るということはありません」と言いました。

この「親離れしないんですか?」という質問とともに、帰り際「子供たちが社会人になったらあなたと2人でゆっくり旅行と思っていたけど、違う将来になりそうだね」といっていた母の言葉が今でも強く印象に残っています。

自閉症の診断から3か月後、母親の急死

―診断を受けて、白羽さんはどのように対処されたのですか?
私は「訓練によって改善する」ということから、すぐに地域の療育(治療教育)センターへ申し込み、その後も診断書をそろえたり、かかりつけ医を決めたり……そうした事で慌ただしくしていました。そんな折、母が突然亡くなったのです。息子の診断から3か月後のことでした。

頭が痛いと電話で言っていたので様子を見に行ったのは亡くなる2日前の土曜日のことです。めったに体調を崩さない母なので「珍しいね、月曜日病院に行ったら?」とは言っていました。そして、実家に泊まった翌日の昼間「じゃあこれから予定があるから出るね」と言って家を出たことを覚えています。

これが、母と交わした最後の言葉です。その夜、電話しても出ないので、寝たのだなと思った。翌朝電話して出ないから、医者に行ったのかと思った。でもかかりつけの医者に電話しても来ていないと言うし、午後になっても母と連絡がとれないとなったとき、すごくイヤな予感がしたんです。それでアポを取りやめて実家に戻ったら、母はすでに亡くなっていたのです。脳内出血でした。

―診断からお母さまの急死……、心の整理をつけるのも本当に大変だったことと思います。
正直いまでも、母をもっと安心させてあげればよかった、と悔やむこともあります。そして、そのときは現実問題として、葬儀にはじまり、相続、家の処分をどうするか……、1人娘として、全部自分で決めて実行していかなければいけない。

仕事もあるし、日々のスケジュールに追われてしまう。でも逆に、そうして動き回っていなければ、しんどい、という面もありました。周囲の人々のおかげで日常を取り戻し、次男の将来のことを冷静に考えられるようになったのは2013年に入った頃からだと思います。また、「知的障害を伴う自閉症スペクトラム」という正式な診断を次男が受けたのも、その頃のことです。

息子の支援学校入学、自身の退社を決断

―当時、次男さんはどのような生活だったのですか?
次男は診断前からお世話になっていた保育園に通いながら、療育センターのグループ療育に週1回、個別療育に月2回通うという生活をしていました。そして、保育園の先生から質問がある「次男の行動に関して困っていること」への対応については、療育センターと相談して、主人も含めて関わるみんなで共有するようにしていました。
対応や指示がぶれないほうが、子供がパニックを起こさないのです。言い方をそろえたり、絵カードを取り入れたり、子供がこの人が何をいっているのかがわかる、という環境を横並びでそろえることに気を付けていました。

ただこうした対応ができるのは、ひとりひとりが違う行動をしても許される保育園だから。小学校ではそうもいかない。保育園を卒園する前にいろいろと決断しなくては、とは考えていました。
まず、進学先として普通級(小学校の通常の学級)、(小学校の中にある)特別支援学級、特別支援学校のどれかを選ばなければいけない。それぞれ、選んだらどうなるだろう?そのあとは?
色々と考え、区や先輩ママにお話も伺った末、特別支援学校を選びました。息子の状況を考えれば、普通級や特別支援学級が合わなければ転校というような環境変化は望ましくないと思ったのもあります。

特別支援学校はそれぞれの子どもにあった教育を受けられる場所です。教育というのは、勉強よりも、訓練といったほうがしっくりくるかもしれません。挨拶をするとか、他人との距離感をどうとるかとか。大人になって社会生活を送れるための行動を身につける場所なのです。
息子の進学先とともに、私自身の進路も決断しました。会社を辞め、自分で事業を起こすということです。

親子3人・保育園の運動会にて

#こうして次男と自身の進路を決断した白羽さんは、2014年に翔泳社を退社、自家焙煎珈琲店「縁の木」を立ち上げます。次回【障害という「個性」を持つ子が「選べる」仕事をつくりたい】ではその立ち上げ時のことを振り返りながら、育児と仕事に対する白羽さんの想いについて、お話いただきます。

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ABOUTこの記事をかいた人

小林麻理

ライター、社会保険労務士、本サイト運営人。執筆・編集オフィスライト(https://officewrite.wordpress.com)、社労士事務所ワークスタイルマネジメント(https://workmanage.net)代表。1978年千葉県生まれ。2000年早稲田大学法学部卒業、NTTデータ入社。2003年に出版社(商業界)に転職、その後、翔泳社を経て、2013年3月に独立。現在、2歳の娘の育児中。